縄文人(じょうもんじん)とは、縄文時代(新石器時代)に日本列島全域に居住していた人々の総称。約1万6000年前から約3000年前まで現在の北海道から沖縄本島にかけて住み、縄文文化と呼ばれる文化形式を保持していた。 縄文時代のさまざまなサンプルの人口ゲノムデータは、紀元前1万5000年頃に他の東アジ…
71キロバイト (10,689 語) - 2024年1月8日 (月) 09:47

4 日本@名無史さん
>D1a 三兄弟、このパターンから行けば、
縄文人祖先の誕生地は東南アジア~ミャンマー周辺が怪しいな。

そして、チベット・ビルマ語族 D1a1a
日本(大和・アイヌ・琉球) D1a2a
インド洋アンダマン諸島(オンゲ族、ジャラワ族)D1a2b

中国南部のチベット・ビルマ語系の少数民族にはY-DNA、D1a系が多い。




5 日本@名無史さん
>東南アジア周辺にすむ海の遊牧民で水深20mの海中を歩きながら漁をする。
それに脾臓が肥大化し10分近く潜水できると言うから驚く、一般人は2分ほど。

ミャンマーのモーケン族、
フィリピン、マレーシア、インドネシアの島々に暮らす先住民「バジャウ(Bajau)族」

そして沖縄の海人(うみんちゅ) 沖縄の方言で、本来はアマと読みます。
海に潜って貝類や海藻を採集する漁を(専業あるいは兼業で)職業人という意味です。

6 日本@名無史さん
>この母系 M7aグループは(約2万-1万年前)には沖縄(23%)で発見されており
北海道アイヌ(16%)の主体であるD系縄文人祖先と共に移動した家族と思われ、
日本固有のDNAと云われてる。

ハプログループM7a (mtDNA)
起源
約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループである「インドM」型から
分岐したM7よりのグループで、約2万5000年前に「スンダランド」で誕生し波打ち際を、
北上して東シナ海平原より日本列島(九州・沖縄2方面)に到達した系統にあたるとする。

なお母系 M7aの姉妹グループは何れも東南アジア方面で
「M7b」は中国南部内陸へ移動し分布を広げ、
「M7c」はフィリピン、インドネシアなど島嶼部に分布を広げた。

7 日本@名無史さん
>このサイトの写真に有る弓の握りが倭人伝にある「上長下短の木弓」の位置で、

銅鐸の弓絵と同じ弥生人の握り。 現在も和弓では、この握り位置で射る。
4万年前からの縄文人祖先たちと同じ漁をするため海洋民の文化なんだろう。

ジャラワ人(ジャラワ族)とアンダマン人〜
Y染色体ハプログループD1a2bとオンガン語族〜

第二次大戦時に英軍を追い出し日本軍に占領されたのも、何かの因縁だろな。

8 日本@名無史さん
>これらは東南アジア・スンダランドから主食の魚貝類が取れる波打ち際を北上し
東シナ海平原から九州島に上陸した。波打ち際は今では海中で遺跡が残らない残念。

途中途中に丸木舟の刳り抜きよう丸ノミ形石斧の、原形を工夫し完成形へと磨かれた。
東南アジア諸島には丸木舟を作る丸ノミ形に似た円筒型石斧が使われてる。

そして沖縄方面に丸ノミ形石斧を持参し逆南下して行き、
台湾周辺からの北上グループと合流したんだろう3万年前ころに、
縄文人の航海能力には驚かされる。

9 日本@名無史さん
<彼らはラピタ土器文化を持っていたから入植があれば日本にもラピタ土器が伝わってる
<ラピタ土器は台湾あたりの南支那の印文陶と酷似し、彼らのルーツを物語る

ラピタ土器ではないが中国南部、百越の土器や縄文土器に似た
エクアドルのバルディビア土器そっくりな、土器が宮崎から発見されてる。

太平洋岸に面した宮崎市で、南米エクアドルのバルディビア土器とそっくりの
文様を持つ縄文土器群が発見されていた。

宮崎市跡江貝塚遺跡は、公式には1万2000年前から7000年前の物とされているが、
発見者の日高氏によるとアカホヤ層(喜界島噴火による火山灰層)の直下まで、
土器が埋まっている事から、約6300年前の喜界島大噴火まで続いた土器文明であると言う。
この遺跡からは、なんと24種類もの文様の土器が発見されており、
文様の豊富さでは、九州随一だと言う。

10 日本@名無史さん
>縄文遺跡人骨からのDNAは男系がD1a2aが圧倒的に多く、女系はM7a、N9bが多い。
鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡からはC1a1が出て現在でも日本人の~5%はいる、
兄弟関係のC1a2が地中海周辺からインドネシアに、アボリジニはC1b3が多い。

(mt)M7a 6人 N9b 14人 (Y)D1a2a 8人 不明12人(関東の遺跡でD1a2aの可能性大)
縄文時代の人類のゲノム解析まとめ

ミトコンドリア編オマケ
極東N9bは日本が元で、アイヌ人からか?
しかもロシアのN9b集団(N9b4a)は日本の人の子孫系統では新し分岐? らしい!
そして、姉妹関係のN9aは東南アジア周辺ラオス・マレーシアとかに多い。

11 日本@名無史さん
刃部磨製石斧・局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)とは、
石器全面ではなく刃部(刃先部分)のみに磨き(研磨)をかけた磨製石斧の1種である。
日本列島では約4~3万年前の後期旧石器時代初頭に登場した。

>この石斧が日本全国から出土して世界最古と云われてる物がオーストラリアからも、
ベトナムハノイ周辺では1.2万年前ころから出現するが全体的に新しく不思議。

中国、朝鮮では新石器時代(1万年前)からしか全面磨製石器が出て来ない。

12 日本@名無史さん
柳江人
1958年、中国広西チワン族自治区柳州市の石灰岩洞窟で出土した
柳江人(3万5千〜4万年前)の古人骨を復元した結果、

日本固有の縄文人の人骨に近い形状であったことから、
Y染色体ハプログループD1a2(D-M64.1)系統の縄文人祖系に近いのでは、

ハプログループ D1a (D-CTS11577)系統の
 今は無きグループであったと推定されている。

13 日本@名無史さん
DEの子型でD系統にもE系統にも属さないDE*がチベット人でわずかに発見されてる。

またインド北東部(ミャンマー国境地域、ナガランドやインパールが有る)の
チベット系民族の一部では、

ハプログループD-M174*(最新の系統図上での位置づけは不明)が0-65%観察される。

15 日本@名無史さん
>倭人伝に魏の使者が見た、倭人の風貌は直感的に海南島に住む民族と似てると。

兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同
「兵は、矛、盾、木弓を用ひる。木弓は下を短かく、上を長くす。
竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃なり。有無する所は儋耳珠崖と同じくす。」

「儋耳珠崖」とは黎族・リー族が住む海南島、チベット語系、チワン・トン語派
前漢が南越国を滅ぼし紀元前110年(元封元年)、海南島に珠厓郡と儋耳郡が置かれた。

>中国漢代の史書論衡にあり、周の成王の時代(紀元前1000年頃)に
「越裳(ベトナムあたり)からは白いキジを献じ、
倭人は鬯草(ちょうそう)を献じた」と記されています。鬯草とは神事に使う香草です。

18 日本@名無史さん
B・C210 史記 秦始皇本紀 始皇帝死亡。 B・C207 史記 秦始皇本紀 秦、滅ぶ。

秦の労役(遼東の長城建設)に苦しんでいた秦人、越人、楚人が遼東から逃亡。
南下したものは箕氏朝鮮へ入る。

史記 東越列伝 越王の後裔、騶無諸と騶揺は越人を率い、諸侯を助けて秦を滅ぼしたが、
楚の項羽に冷遇されたので距離を置いていた。

B・C202 史記 項羽本紀 項羽滅ぶ。漢(劉邦)が中国を支配。
史記 東越列伝 漢の高祖(劉邦)は項羽との戦いで功を上げた騶無諸を閩越王となす。
騶揺は前191年東越王に安堵された。

19 日本@名無史さん
>つまり、高句麗王朱蒙王(鄒牟、仲牟、都慕、須牟祁)
『漢書の「騶」』

高句麗の始祖朱蒙、『廣開土王碑』では鄒牟王とある。
初代王は越王家の鄒一族。

20 日本@名無史さん
百済本紀の分注に、
朱蒙が卒本扶余に至った際に「越郡」の娘を得て二子をもうけたとする記事がある。

「二子」とは、温祚と沸流のことであり、井上秀雄は「越郡」について、
「中国浙江省紹興地方」と注記している。すなわち、浙江省紹興の娘が、
遼寧省丹東市桓仁県に来て、朱蒙とのあいだに、百済の始祖となる温祚と沸流を生む。

西安出土の在唐百済人墓誌の釈文のなかで、亡命百済貴族に
「楚国琅邪」を籍貫(本籍の事、中国語版)とする人物がいることを指摘している。

山東半島から江南に及ぶ中国沿海部と百済の関係から考えて、
東渡した集団、山東から遼東を経て朝鮮半島に到達したと考えられる集団と
同じ行跡を辿った集団との関連性が指摘されている。

21 日本@名無史さん
高句麗語の「忽次、古次」・・・口を意味する
古代中国語のxwot(忽)クオトゥ、ku(古)、tshij(次)ツィという語を考えれば、
高句麗語の「忽次、古次」が日本語のkuti(口)に対応する語であることは明らかでしょう。

日本語との比較においては数詞である*mil(三)、*ütu(五)、*nanən(七)、
*tək(十)や、動物名である*usaxam(ウサギ)、地形を表す*tan(谷)など
基本的な語彙に類似した語形のものが数多く見出されている
.

韓国数詞 하나(ハナ)1・둘(トゥㇽ)2・셋(セッ)3・넷(ネッ)4・다섯(タソッ)5
・여섯(ヨソッ)6・일곱(イㇽゴㇷ゚)7・여덟(ヨドㇽ)8・아홉(アホㇷ゚)9・열(ヨㇽ)10

のように日本語と高句麗語・濊貊語は良く似てるが今の韓国語とはまるで違う。

22 日本@名無史さん
言語学者さんによると数千年も隣で生活しながら、
これだけの言葉の違いは、途中から全く別系統の民族が侵入したとしか思えないと言う。

例えばヨーロッパなどでは隣国とは違いはあるが、話は何となく聞き取れるらしい。

23 日本@名無史さん
そこで心当たるのは1274年の元寇、モンゴル軍の侵入で
その時、先兵として連れて来た中国北部の興安嶺一帯、アムール・黒竜江周辺の
狩猟民「索倫族ソロン族」彼らが大部隊で、高麗を占領し遼東北部に強制移住させた。

当然、殺戮に次ぐ殺戮で男たちは皆*、先祖からの繋がりはリセットされてしまい、

歴史的に繋がる高句麗、濊貊、扶余、の会話言語が殆んど消えてしまった。
日本で朝鮮のこと朝鮮と言うが、
原因を作ったモンゴル人は朝鮮のことを「索倫ソロンゴス」と言う。

24 日本@名無史さん
日本語と高句麗語・濊貊語・扶余語は
高句麗も扶余も故地(出身地)の馬韓へ兵を集めに行くほど、言葉が通じてた。

弁辰(べんしん)の)国に鉄を出し、韓・濊・倭、皆従いて之を取る。
諸市皆鉄を用いて買うこと、中国の銭を用うるが如し。
 と言われるほど言葉や慣習が通じ合う関係だった。

ところが、今の日本語と韓国語では全く会話ができない。

25 日本@名無史さん
ほとんどの高句麗人・濊貊人・扶余人は今の日本人の祖先にあたる部族集団。

残念ながら朝鮮半島に残った彼らは、ほぼ殺戮されたり強制移住で絶滅したんだろう。
この時、高麗人、僧侶、などは多く日本に亡命してて寺などに逸話が残ってる。
女たちはモンゴル兵の子を産み、民族浄化のために貢献したんだろう。

モンゴル兵と言っても色んな民族の寄せ集めだろうし、
主なのが宋や金の女真族、ソロン族、漢族、蒙古族
それに後の李氏朝鮮時代に明との関係が深くなり漢族との混血も大きいのかも。

26 日本@名無史さん
チベット・ビルマ系に属する言語は大部分が SOV 型である、
主語 (Subject)私は - 目的語 (Object)ご飯を - 動詞 (Verb)食べた、
の語順をとる言語で「私はご飯を食べた」となる。

東南アジア大陸部で話されている他の系統の言語は一般的に SVO 型である。
例えばミャンマーの隣国で話されているタイ語はSVO 型で違いがある。

27 日本@名無史さん
>中原世界では、黄海、は東海と表現し、楽浪大海中に倭人ありと表現するように、
つまり「東夷王は大海を渡り」とは倭王を意味し「珍しい品々」も倭国の代名詞。

それくらい倭王とは「東夷王」と表現されるほど東夷世界で一目置かれた存在。
だからこの後すぐ 西暦57年「漢委奴国王」の金印を贈られた。

王莽(前45~23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より
禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8~23)の皇帝に即位しました。

28 日本@名無史さん
『漢書 王莽伝』
越裳氏重譯獻白雉、
黄支自三萬里貢生犀、
東夷王度大海奉國珍、
匈奴單于順制作、去二名

越裳は重ねて使者を通じ、白雉を献じた。
黄支は三万里を経て、生きたサイを貢いだ。
東夷王は大海を渡り、珍しい品々を奉った。

29 日本@名無史さん
>この湖北、湖南、江西、地域が東アジア人 O系 が生まれた地域だろな、O1b2系も、
原始的な石器だけの手法でも充分食料が手に入るし飲み水が潤沢にある。
三者全て合わせると九州島/面積36,780 km²位に成る広大な地域で動植物が豊富な地域。
これに、長江沿いには上流、中流、下流、それぞれに大きな湖が無数にある。

鄱陽湖(はようこ)
中国最大の湖で表面積は、季節により146km2から3,210km2まで変動し、
 長江の水流を調節する役目を果たす。

洞庭湖(*こ) 通常期の湖の面積は2,820km²(琵琶湖の約4倍)だが、
 増水期は20,000km²(関東平野や四国よりも広い面積)にも及ぶ広さになるという。

これに長江の水流を調節する役目を果たす湿地帯があり渡り鳥の生息地で鳥見が楽しめる。
魚の宝庫で漁業が盛んだが乱獲などにより数が減り、現在では完全に禁漁となっている。
 内陸デルタは2020年にラムサール条約登録地となった。

30 日本@名無史さん
ここから長江下流へ移動したO1b2系、
好物の魚貝類食べて塩分取り過ぎたでDNAが変異していったか?

31 日本@名無史さん
長江下流に移動したなら現代の長江下流からある程度はO1b2の人が見つかるだろ

33 日本@名無史さん
楚(そ、紀元前11世紀 - 前223年)は、湖南省、湖北省、を中心とした王国。
中国に周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した王国。

楚の成立に関しては、漢民族とは異質な長江文明の流れを汲む
南方土着の民族によって建設されたとする土着説など、さまざまな仮説がある。

現代の遺伝子調査では長江以南である
中国南部の楚、呉、越の遺伝子は中国北部の遺伝子と相違する[1]。
『史記』楚世家では、楚の祖先は顓頊(五帝の一人で黄帝の孫)であるとする。

34 日本@名無史さん
現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を建国したという説がある。
熊氏楚、熊襲か、、、

また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が
楚を建国したという説が有力視されているものの、どちらも有力な証拠はまだない。
ミャオ族の民族衣装の紋様と銅鐸の模様がよく似てる。

35 日本@名無史さん
ミャオ族「苗族」の精霊信仰・精霊崇拝

ミャオ族の祖先を蚩尤とする。「史記‐封禅書」に「兵主、祠二蚩尤一」とある。
蚩尤は八神のうちの兵主神(ひょうすのかみ)戦の神。

守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護していると考えられている。
また、それぞれの男系の氏族長が祖先霊 (Dab xwm kab) の祭壇を持っている。
その他にも太陽の精霊 (Nkauj Hnub)、月の精霊 (Nrang Hli)、雷神 (Xob)
などが知られている。

36 日本@名無史さん
洪水型兄妹始祖神話において、兄と妹が大木の周りを回ること、
最初の子が目も口もない子であることなど、(ヒルコ伝説)
日本の国産み神話との類似性が伺われることを松前健が指摘している[17]。

日本では稲作の準備で種籾から良い芽を出す事を「苗作り」といい。
 子孫、血筋、を「苗裔」ともいう。苗作りを通じて遺伝の法則に気づいていた。

37 日本@名無史さん
OからO1、O2、へとO1aは台湾へ、(オーストロネシア語族 )
O2は中国内陸で漢族の主要DNA

O1b1は長江上流から東南アジア方面へ、( オーストロアジア語族)
兄弟のO1b2は長江下流へ、中国東岸から朝鮮半島南部と九州方面へ、(47Zか 弥生人,倭人)
もう一方の陸伝いに黄河、渤海湾北岸と遼東半島へ(L682か、主に朝鮮民族)

OからO1、O2、は黄河から長江の間で生まれO1は長江中流方面へか